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「天から言葉が降りてきた」という言葉

「天から言葉が降りてきた」という言葉

 

 

 

「天から△△という言葉が降りて来たので今は〇〇活動しています」というスピリチュアルかぶれの人。「この歌詞は天から降りてきたメッセージなんだ」というミュージシャンかぶれの人がいます。僕は、このような「天から言葉が降ってきた」という表現をする人に対して違和感を覚えるのですが、あなたはどうでしょうか?

 

 

違和感の理由

 

 

僕だけでなく、僕の周りの人たちも「天から言葉が降ってきた」という表現を使う人に対して違和感を持っていました。なので「この違和感はなんだろう?」といった思いが強くなり、その理由を言語化することにしました。その結果、大きく2パターンに分けることができました。

 

 

理由①神の存在を暗示することで議論が終わってしまう

 

 

「天から〇〇という言葉が降りて来たので今は〇〇活動しています」と言うと、それは、その人のふとした「(思慮の浅い)思いつき」にしか過ぎない場合が圧倒的に多いにもかかわらず、人間を超えた存在からの啓示をほのめかすイメージになるからです。それは同席している人からの議論の余地を力技でねじ伏せた印象が残り、改善のアイデアを貰う場を奪ってしまいます。例えば、たこ焼き屋をオープンして伸び悩んでいる時に「ピンクのたこ焼きって面白くない?」と言うアイデアが出たとします。その時、「面白いね!ピンクのたこ焼きってどう作ればいいかな?」「他にもどんなアイデアがあると思う?」と問いかければ、さらに良い改善案が出る可能性が高いですが、「いや、僕は普通のたこ焼き屋をやるべきだと天から言われました。なのでその案は却下で。」と言われてしまったらどうでしょうか。「あ、そうなんですか。。。」とそれ以上、何も言えなくなってしまいますよね。

 

 

理由②単純に「いやらしい」

 

 

2つめは、単純に「いやらしい」ということです。「私は何者かからの特別なメッセージを受け取れる、お前達と違って特別な存在なのだよ。どうだまいったか」とほのめかしているようで、ネチっとした威圧感があり、何ともいやらしい表現です。「愛の言葉が〜」「平和とは〜」と言っている人に限ってこのような表現を使いますが、相手を威圧してどうするのか、と思ってしまいます。「神」や「天」という表現を使うことで相手を威圧し、マウンティングを取るのはどうも野暮ったいです。

 

 

 

「神」や「天」という表現を使うタイミング

 

 

もし仮に、何かメッセージが天から聞けたとしても、それを、「すごいだろ!」と言うのは得策ではありません。「すごい」と思わせてもいけません。柿の木になっていた柿の実を、そっとプレゼントするように、ナチュラルにすることです。柿の実をもいでプレゼントしたとしても、すごいのは柿の実を作った柿の木であって、実をもいだ「あなた」個人ではないからです。

 

手渡しただけで、相手が威圧感や畏怖の念、ポジショニングを必要以上に感じるのは「野暮(やぼ)」です。

「天から降りてきた」などの神秘的な言葉を「野暮にならずに」唯一使っていいとするなら、それは手段として「そうする他に相手の苦しみを取り除けない」時、もしくは「そうすることが一番効果的に人を苦しみから和らげる」時だけではないかと思います。

 

例えば、マッジマニカーヤの第86経の「アングリマーラ経」には難産で苦しむ妊婦を勇気づけるために、釈迦が、出家以前は殺人鬼であった弟子アングリマーラに対して、

 

「女人よ、私は聖なる生を得てからこのかた、故意に生きるものの生命を奪ったという覚えがない。その真実によって、あなたに安らぎが、胎児に安らぎがあるように」

 

と言うように命じる場面があります。妊婦はその言葉を聞いて苦痛を和らげることができました。このように、「神様」「天」という言葉を使う時は、自分のマウンティングのためではなく、人の心を救うためであると良いですね。